教えのやさしい解説

大白法 711号
 
正直捨方便・但説無上道(しょうじきしゃほうべん・たんせつむじょうどう)
 「正直捨方便・但説無上道」は、法華経『方便品』にあり、
 「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経一二四n)
と読みます。

 正直捨方便・但説無上道の経意(きょうい)
 「正直捨方便・但説無上道」とは、華厳(けごん)・阿含(あごん)・方等(ほうどう)・般若(はんにゃ)等の、法華以前に説いてきた方便権経(ごんきょう)を正直に捨て、ただ真実無上の仏道である法華経を説く、との意です。これについて天台大師は『法華文句(もんぐ)』で、
 「五乗は是れ曲(きょく)にして直(ちょく)に非(あら)ず、通別は偏傍(へんぼう)にして正(しょう)に非ず。今は皆彼の偏曲(へんきょく)を捨てて但(ただ)正直の一道を説くなり」
と説明しています。
 仏が世に出現された本意は、一切衆生を成仏の境界に至らしめることにありますが、仏は衆生の機根(きこん)がまちまちであったために、真実の大法をただちに説かず、人・天・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩の五乗に応じて仮(かり)の教えを設(もう)け、衆生の機根を調(ととの)え養ってきました。これら爾前権経は、大直道である一仏乗を説く法華経の立場からすれば真っ直ぐでない、紆余曲折(うよきょくせつ)した道です。また、爾前権経にも円教が含まれるとはいえ、通教・別教という権教を付帯(ふたい)した偏(かたよ)った教えです。したがって、これらの曲がり偏った爾前権経を、仏自身が捨て、今から「正直」の「一道」である法華経を説き明かすと宣言したのである、と天台は解釈しているのです。

 正直に方便を捨て但法華経を信ずる
 日蓮大聖人は、
 「法華経は正直の経、真実の経なり」(御書 九n)
と仰せのように、御書の随所で、法華経こそが正直の経、諸仏出世の真実の教えであることを明かされています。そして、私たちの成仏の道として、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業・苦の三道、法身・般若・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(同 六九四n)
と、正直に爾前方便の教えを捨て、諸仏出世の本意たる法華経を信じ、南無妙法蓮華経の題目を唱えるところに即身成仏の功徳があることを御指南されています。
 この「正直に方便を捨て」の文意について、総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は、
 「問う、『正直に方便を捨て』の意は如何(いかん)。答う、『正直』とは、譬えば竹を竹と識(し)り、梅を梅と識り、松を松と識るが如く、権を権と識り、実を実と識り、迹(しゃく)を迹と識り、本を本と識り、脱を脱と識り、種(しゅ)を種と識る、是れを『正直』と云うなり。既に権を権と識り、実を実と識る則(とき)は、永く権を用いざる故に権を廃捨(はいしゃ)す。故に『方便を捨て』と云うなり」(御書文段 六二一n)
と御指南されています。要するに、権実・本述・種脱と従浅至深(じゅうせんしじん)してその勝劣を判じ、文上熟脱(もんじょうじゅくだつ)の一切の教法を捨てることが「正直捨方便」の真意です。
 したがって、私たちは、ただ寿量文底下種の御本尊を信じて南無妙法蓮華経を至心に唱えることが、仏智に適(かな)った正直な信仰であることを知るべきです。

 諸天善神は正直の者を守護される
 諸天善神(しょてん ぜんじん)は、末法下種の法華経を信ずる正直な者を守護します。すなわち、
 「天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、皆一乗擁護(ようご)の神明なり。然も法華経を以て食と為(な)し、正直を以て力と為す」(御書 三七一n)
 「此を以て思ふに、法華経の人々は正直の法につき給ふ故に釈迦仏猶是(なおこれ)をまぼり給ふ。況(いわ)んや垂迹(すいじゃく)の八幡大菩薩争(いか)でか是をまぼり給はざるべき」(同 一五二五n)
等とあるように、諸天善神は、正直の法である南無妙法蓮華経の法味(ほうみ)によって威光(いこう)勢力を増し、法華経を信ずる者を守護するのです。その守護の功徳は、日常生活のあらゆる場面において、様々な不思議な姿形や用(はたら)きとなって現れ、私たちに確かな安心と利益を与えるのです。

 仏道における不正直の相
 一方、仏道における不正直について『下山(しもやま)御消息』に、
 「而(しか)るを初心の行者、深位(じんい)の菩薩の様に彼々の経々と法華経とを並べて行ずれば不正直の者となる」(同一一四〇n)
と説かれています。末法における私たちのような初心の修行者が、爾前権経と真実最勝の法華経を並行して信仰することは不正直であり、決して諸天善神の守護も即身成仏の大益も得られないのです。
 また、法然(ほうねん)のように、法華経を褒(ほ)めあげるものの、理深解微(りじんげみ)と称して法華経は末法の凡夫の機根には合わないとして、法華経を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)すべし」と退(しりぞ)ける姿に対し、大聖人は、
 「されば機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり」(同 八四六n)
と断じられています。法華経自体に、爾前方便を捨てよと説かれているにもかかわらず、我見、執着(しゅうちゃく)をもって法華経は末法の機に合わない、などと独断するのは不正直の僻見であり、仏法破壊の大謗法なのです。
 特に今日、創価学会の下種三宝への誹謗(ひぼう)反逆は、まさに不正直の中の不正直、謗法の中の大謗法であり、「現代の一凶」として厳しく指弾(しだん)すべきです。

 まとめ
 私たちは、
 「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」
 (同一三七〇n)
と仰せられた大聖人の御意(ぎょい)を拝し、世間・出世間にわたって正直に清く生きていくことが肝要です。正直に邪は邪と喝破(かっぱ)し、正法流布に努めていくことが「正直捨方便・但説無上道」の経意に適(かな)うものと心得て、信行に励みましょう。